自分に不利益なもの。いつの間にか切って落としてきた生活。かっこいれをしてきた事実。
抽象化の成れの果て。何も起こっていない事態。

そんな否定的なことがありました。
知らないふりしていていつ間にか〇〇になっていること。

結局、明日からはお休みすることに決めました。

2008.06.12 | | Comments(0) | Trackback(0) | 考えごと:饒舌

To be happy is not happiness

国民総幸福量というのがあるのを今日知りました。幸福なんて、総生産よりも曖昧なものを果たして数値化できるのか、そう感じました。
ややして、ありうるとも思いました。心理学、社会学、行動科学的アプローチによって。

ここで、「幸福」が「幸せ」という言葉であったならそうは思わなかったでしょう。幸せとは宗教、民族によって、個人によってすら異なる質のもの。それを普遍化する手段を僕は考えつきません。幸せとは幸福の必要条件かもしれませんが、必要充分条件でも、十分条件ではない。幸福と幸せは言葉上、似ているものですが、実は異なるものなのだと考えました。

学校の課題は先ほどの国民総幸福量を「住宅総幸福量」と解釈してのリサーチ。ここで、幸せと幸福を混同するとディスコミュニケーションが生じうる、と感じたのです。
「幸せだなぁ」と感じることがあります。お風呂や、就寝直前、友人と飲む酒、恋人との夜。だいたいその感情は瞬間的なものです。幸せな住宅はありうるのでしょうか。住人が常に「幸せだー」と感じているような。そんなものはもはや偏執狂的、カルト宗教的要素すら感じます。住宅に住む限り、住人の人生と共にする以上、常に幸せであることはありえない。例えば、家族の死、病気、不成功など。

幸福ならありえるかもしれない。例えば、とても忙しく、厳しい仕事をやること。それはマゾヒスティックに幸せを感じうることは例外として、楽しいものではありません。でも、やる。仕事だからとか収入などの理由関係なく。その仕事が好きであった、やりがいを感じる、やり遂げた後に幸せを感じる、そういうものならばその人は幸福かもしれない。

だから、幸福というものは幸せだけでなく、その他ネガティブな感情も含め様々なエッセンスが長いスパンをもってバランスがとれた状態を言うのだと思います。感情ではなく、状態です。そのバランス加減は人によって異なるかもしれない、でもそれらのエッセンスはもしかしたらある程度は万人共有的かもしれない。また、それは長い期間をもって初めて幸福と言えるものならば、幸福とは瞬間的な幸せとは違い、感じられにくいものかもしれません。
つまり、幸せであり続けることが幸福であるとは思いません。

だからバートランド・ラッセルの著書の日本語訳タイトルが「幸せになる方法」ではなく、「幸福論」なのでしょう(この本の中には幸福であるためには如何にすればよいかが記されてありますが、やはりそれは幸せとは異なります)。

住人が幸せな住宅はそんなわけで不可能でしょう。幸福な住宅ならありうるかもしれない。そんなことを思い(特にディスコミュニケーションが生じないよう)、グループの人たちに話してみたのですがそれがどれほど伝わったのか、話し方もよくないせいで微妙でした。。。


2008.04.18 | | Comments(0) | Trackback(0) | 考えごと:饒舌

声、現代に消え

こういうのを書いてるからには美しい文章を書きたいものです。難しい。

あらゆる言葉や批評によって表される、性質的なものに最近興味があります。それを性質である、と言い切ってよいか、そこは曖昧にしておきましょう。とにかく、それが万人十色の仕方を以て解釈され、また再表現(主に言葉によって)される。そこに差こそあれ、それ自体はある性質を持ち続けている。表現されたものを広くエクリチュールと仮にここでのみ定義としましょう。そして、そこに映し出された主観的な現象的なもの、それをおそらくガストン・バシェラールの言うイメージなのではないかと思いました。イメージとは像です。輸入された日本語的解釈ではなく。
このイメージは様々な言葉によって再構築されるからこそ、イデアとは違い、曖昧で揺れ動くもの、具体的には間主観的に多様な解釈が可能なものであると思いました。
そのイメージを発生させるのは何か、ある性質を備えたものとは何か、それは言葉では表現できないものです。何故なら、今述べたようにイメージとは多様な解釈を持たせうるものだから。
イメージが曖昧であればあるほど、その多様性は価値観にまで影響しうるものです。こうして曖昧なイメージが氾濫する現代にはそれ相応の多様な価値観が生じ、同時に、どちらが先かはわかりませんが曖昧なエクリチュールが生じ、灰色が価値を持つ時代になったのだと思います。
それは見かけだけの構造主義のように見えます。
それを良しと感じないワタクシがあって、それをなかなか共有することができません。そろそろと同時代的なことに飽きは生じまいかと思うときもあるのですが、先人のように、ある価値観を背負って生きていくだけの能力はまだまだ自分には足りません。今日はよくなかった。



2008.04.14 | | Comments(0) | Trackback(0) | 考えごと:饒舌

写真と記憶 〜デジタルは健忘症を救えますか

僕のmacのiphotoには約8000枚の写真が入っています。中には課題のために撮ったものもあるから、それを除けば7000枚くらいでしょうか。一番最初は2003年の3月ですから、かれこれ5年前になります。京都に遊びにいった写真で、次は2003年の9月までありません。北海道に行って、モエレ沼公園などを見て回っています。

写真を見ると、その時のことを思い出すことが出来ます。でも、写真に残ってない瞬間は?2003年以前の僕はどうだったのでしょうか。2003年3月に京都に行ったのはいいとして、1月は何をしていたか、全く思い出せません。
デジカメの記録は記憶のようなものです。それは、思い出すためのツールになっています。僕はデジカメを使わないと何も覚えていないような性質なのかもしれません。
デジカメを持つ以前の記憶は曖昧なままです。曖昧なままの方がよいのかもしれないし、はっきりと思い出せることはまた素敵なことかもしれません。今はそれがわかりません。それ次第ではもしかすると、子供の成長記録、なんてホームビデオほど有害なものはないかもしれませんね。

あと一つはそうして記録された年月というものが、必ずしも人間の身体の感覚と一致しないこと。北海道に旅行に行ったのは覚えています。でも、2003年9月というのは写真でないと思い出せません。西暦とは人間の都合で機械的にカウントされているものだからこそ、逆説的に人間の自然のスケールには合わないものなのかもしれません。

昨日からちょいちょいちょっとだけ真面目ぶっています。もともとこれは裏ブログでして、月に一度二度しか更新しないものだったのが、いつの間にか表をやめてこちらに統一してました。だから、これの初めのほうの記事はとにかく長文で真面目臭いんです。今はそういったものをまたやってもいいんじゃないか、と、頭が回らないなりの本音を残してみようと思っています。
函館駅

写真はデジカメを持ち始めた頃に撮った朝の函館駅、をデジタル加工。

2008.02.26 | | Comments(0) | Trackback(0) | 考えごと:饒舌

つまらない線路は脱線のためにある

言葉と感覚。
こういうことを以前にも書いた気もしますが、書いてないかもしれないです。同じこと何度言って悪いわけでもないだろう。その度に言い回しは異なるのですから。その方が意味にも近づきます。

一昨日の続き。

言葉が非常に強い意味を持つことを書いたのですが、それと感覚の場面でのこと。
言葉と感覚を連関させるために、敢えて便宜的に感覚を5つに分けます。視覚、聴覚、嗅覚、体勢感覚、味覚。
それらのうち、最も関連する言葉が多いのは視覚でしょう。また、視覚は科学的手法において数値化できる要素も多いと思われます。これが感覚の視覚優位が原因なのかはわかりませんが。逆に言語の多さが視覚優位にフィードバックしているのかもしれません。はじめにロゴスありき。近代に入って生み出された芸術は写真、映画(最初は無声)、どちらも視覚に関するものです。
携帯電話も通話でなくメールが圧倒的に普及しているのは聴覚でなく、視覚に依存している人間の性質が出ているのかもしれません(ただ、それだとテレビ電話が普及しない理由がわからないことになってしまいますが)。

以前、講義で五感のうち、一つ捨てなければいけないとしたら?というものがありました。現実的にはナンセンスなのですが、僕は視覚を選びました。消去法で体勢感覚と嗅覚はないと思いました。体勢感覚が無くなれば、空腹も感じない。痛みも感じない。自分がまっすぐ歩いているかもわからない。つまり、命に直結します。体勢感覚というのはそういう意味では人間の根本をなす感覚とも言えます。
嗅覚。嗅覚を捨てるくらいなら味覚を。味覚は嗅覚に依存しているので(僕が五感という言葉を嫌う一つの理由)嗅覚がなくなれば味覚もなくなることになります。
残り3つはある程度は個人の好みのような気もしますが、映画が観られなくなっても(残念だけど)僕は視覚を捨てたい。視覚は強すぎる、と感じたのもその理由の一つです。あと映画は観られなくなりますが、多分ゴダールなんかの映画は聴いてるだけでも楽しめる。
それと、理性のためには視覚としての文字、聴覚としての言語、どちらかがあれば十分に思えました。豊かであることは悪いことではないけれど、僕には視覚は生活の中のエアコンのようにもまた思えました。あると便利だけどなくても生きていけないことはない。ただ、エアコンと同じで一旦手に入れるとなかなか手放せないものです。

次に強いのは聴覚でしょうか。音は波に還元することで数値化できます。音階など広義で言えば言葉の部類に表せます。味覚や嗅覚は専門ではないですが、他に比べれば言語化は進んでないと思います。体勢感覚は一言ではその扱う領域が広すぎます。温度や湿度、テクスチュアなど。

たしか講義の中で敢えて捨てる感覚に視覚を選んだ人は少なかったと覚えていますが、それだけ現代生活というのは視覚情報が多いものなのでしょう。視覚情報なしでは生活できないくらい。視覚情報の多さがまたプライバシーの領域を変えていきます(これについてはもう少し考えます)。
持つ意味一つ一つが強すぎる時代。昨日観た映画を引用して終わるなら、その強さの裏に『かつてないほどの空虚』な時代があります。

2007.08.03 | | Comments(0) | Trackback(0) | 考えごと:饒舌

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プロフィール

kiokucoragist

Author:kiokucoragist
東京の某デザイン研究所学生。日記とたま〜に博物館(含ギャラリー)や映画、デザイン全般について書いてます。映画を一年に一本くらい、ヒマみて撮ってます。映画制作中は制作日記になります。

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