Coz I'm drunk now.

最近、ふと高校あたりのことを思い出すことがあります。
おそらく、きっかけは妹が推薦で高校合格した、というニュースでしょう(僕とは同じ高校でないけれど)。

思い出す、といっても具体的なイベントや人や物事ではなく、イメージとして。
すごく曖昧なまま。どこにもピントが合っていない写真のような。
一枚の画像のようなものとしてあります。

ではそのイメージは一体何か、といわれてもわからない。
そこから生じた感情や印象かもしれません。それが当時と重なっている、ということ。

でもおそらくそれも正しくない。
それはたぶん、当時の自分が生で感じていた感情ではなく自分の中の記憶として再構成された、多少ノスタルジックな甘く変容したものなのだと思います。なぜなら高校の頃なんて、多感なものだから一つの感情や印象に統合できるほど緩やかな生活を送ってはいないからです。とすればやはり時間によって変化したそれの現在、もしくはある地点からの当時とは変わった見方によるものというのが妥当でしょう。

すごく遠い。昔のようなのだから、記憶の引き出しすら錆び付いてなかなか動かないものです。ただ、甘い記憶、むしろ印象として残っているけれど、当時の自分がそんなものだけで構成されたわけはないです。むしろ、そういうことのほうが少なく、あの頃は楽しかったっていう後々の感情の方が影響を与えているのだと思います。

そういえることは今自分は幸せなんでしょうか。そういえば「幸せ」とか「愛」とかいう言葉は苦手です。口にもほとんど出さない。嫌いということではないですが。自分がそれを言うのは何となく似合わないし、相応しくないという抵抗が無意識にあると思います。そこまで自分のことを見れている人間とも思えません。破綻した人生といってもいいようなものを送っているくらいです。

自意識(自信過剰、などの意味でなくてね)は年を追うごとに高まっているようにも思えます。きっとそれは世界(現象学的意味における)に対する知識が深まるのと相関しています。2年前ならそれは自己とはすなわち世界と溶け合っている云々言ってるでしょうが、今なら単に個人の社会的意識に関する程度です。おそらく、僕は他人よりも公共に自分を開いていいと思っている部分が多い。そのくせ、隠したいところは他人よりも隠したがる。コントラストが強いんですね。現代的でない。

生活に不安はあれど、不満はありません。当面も、先のことも目標は見えるし、ずっと大切であるだろう人もいる。こういうの、幸せっていうんでしょうね。ただ、昔を思い出すと、ぬるま湯につかっているような、暖かいけど十分でないからあがると寒くなる、そんな温度の風呂のようです。そんな時間的余裕、これからだって期待できるはずもないくせに。(この日記はだらだらと晩酌を始めてから布団に入るまでの独り言です)

記憶とは実に面白い。線であったものが分断され、点になり、曲線であったそれは最短距離を結ぶ直線になり、統合され塊になって。その大きさ、色などが印象を形成し、常時変化しているような。しかも、アメーバのように塊は横の塊と遠い所で結びつく。きっと50年後は今高校時代、と言ったものが学生時代、に統合されているでしょう。
不真面目に生きてきました。僕は常々、特に大学に入ってからは表層だけで暮らしてきたような節があります。スーパーフラットな人生です。こうやってふざけたがるのが良くない(最も、そのことについては物心がつくとそうでしたが)。他人にはそう見せつつも、一人ではそうでないならまだよいですが、他人に対しても自分に対してもそうだからダメなのです。もう少し、考えながらのほうが良いんじゃないかと思っています。今だけ。
自分でもわかってないのに、他人に判った振りをされるのは好きじゃない。今まで本当にこの人には自分のことが判られている、と思えたのは一人だけです。思い上がりでしょうか。好きな言葉の一つに「J'est un outre.」というフランス語があります。英語だと「I is another.」フランス語のエートルにあたる英語の「be」が主格ではなく、三人称になっているのがいいんです。2人の私。デカルトの近代的自我なんてもはやありはしません。「思う私」と「在る私」は別人。「自己が最も遠い」はさすがに極端だと思いますが。

言葉。こうして書く言葉も話す言葉も、芸術と変わりはありません。ただし、表現というレベルにおいて。感情や感覚と言葉の間にある深い溝。それを意識できない人が今の社会には多すぎる。言葉は誰のものでもなく、また、皆のものです。ヴィトゲンシュタインが完全な私的言語を否定したのは全く正しいこと。個人の感覚、感情は必ずしも共有できるという確証がない。また、共有できればいいというものでもない。
その2つの関係は予測不可能な関数になっていることもまたなかなか思われない。
ある感情が発せられる言葉に直接的、あるいは間接的な影響を与えるのはいいんです(直接的には「いいですね」、とかいう言葉)が。他方、言葉が感情や感覚に影響を与えていることを無意識的に否定している人は多い。それは美術品の鑑賞に似てます。単純に見た目で良さを感じなかった作品も、その背景や意味を知ることで良いと思える作品になること。デュシャンの便器なんて、背景を知らなければ判らない作品かもしれません。あの見た目の前衛さ(もはやこのコトバは意味をなさなくなってしまった現代)を好きになる人はいるかもしれませんが。僕はアンディ・ウォーホルは最初は全く良いとは思えなく、むしろ嫌いな部類でした。そういうのが言葉と感情の間にもあるのです。当たり前の人には当たり前に思えることですが。

そろそろ飽きてきました。ただ、今日の根拠ない反省に、もうちょっと真面目に生活しようかなとは思えます。最後に、ちょっと遅いですが、おめでとうございます。

2008.02.25 | | Comments(0) | Trackback(0) | 長い文

3月の不安

家に帰ると、ポストに数枚のチラシが入っていた。どうやら、新築マンションのチラシのようだが、僕は玄関に入るとすぐにそれの中身も空けずに捨てた。すると、チラシがなんとも憐れに思えた。これらはチラシとして作成されたにもかかわらず、その情報を伝えることもなく捨てられ、焼かれるのだ。ただ消費されるだけだ。それから、捨てた自分ではなく、その印刷者を冷酷に思った。


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2006.03.10 | | Comments(0) | Trackback(0) | 長い文

待つこと

2月19日の上映会、その後の日々。上映会に関しては、5月か6月か、そこからずっと動いてきたもの。上映会は、大成功に終わった。


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2006.02.23 | | Comments(0) | Trackback(0) | 長い文

東京へ

仙台から東京へ。大学卒業後の2006年4月の新生活、また、結果次第で人生を決定する受験に。


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2006.02.02 | | Comments(3) | Trackback(0) | 長い文

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プロフィール

kiokucoragist

Author:kiokucoragist
東京の某デザイン研究所学生。日記とたま〜に博物館(含ギャラリー)や映画、デザイン全般について書いてます。映画を一年に一本くらい、ヒマみて撮ってます。映画制作中は制作日記になります。

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