
初めて見たときは誰でも驚かずにいられない、本城直樹の写真。実際の風景がミニチュア風に見える。言ってしまえば単にピントの問題なのですが、僕も実際にデジタル写真を加工して真似てみるまでは不思議なものでした。
何故ミニチュア模型のように見えるのか。それは見え方の問題です。モノを近くで見たときに、周り(周辺視)がぼやけてしまうということを人は無意識ながら知っているのです。近くのものを見ようとすればするほど、焦点はそれだけに合うようになり、周辺視はほとんど見えなくなります。また、遠いものに焦点を合わせると風景全体が目に入るようになります。写真と同じですね。目に写った像は三次元的に見えますが、実際は像自体は二次元であり、三次元的に知覚しているだけです。
そして、それを写真に置き換えた場合でも。というわけで本城直樹の写真は近いものを見ているように思わせられるのだと考えることができます。
また、ライティングが単純化しているように見えたり、モノのテクスチュアが単純化されているように見えます。これは、個人的な見解ですが、ぼけている周辺とのコントラストが原因なのではないかと思います。実際、写真を加工している最中、周りをぼやかしていくほど単純化の度合いが進んだようにも見えました。ただ、これはあくまで個人的な意見に過ぎないので確かめるのには実験で検証する必要はあるかと思います。
それと、これが大事だと思うのですが、ピントの合っている部分です。今月号の「デザインの現場」でも本城直樹風に加工した写真がありましたが、それは点にピントがあっていました。
しかし、実際彼の写真を見てみると、横一帯に帯のようにピントが合っているのが分かります。僕もそういう風に加工したのですが、それは人の目が横長だということに関係がある気がします。これは多分重要なことで、比べてみると確かに違うことがわかります。程度にもよるのでしょうが。
いずれにしろ、こういう周辺視とモノの見え方に関する研究は少ない知識ながら、知っている範囲では聞いたことがありません。僕がまだ学部生だったら挑戦したかったですが、なかなか先がありそうで面白そうです。
2007.04.07 |
| Comments(0) | Trackback(0) | 考えごと:デザイン・アート

部屋でぼけ〜っとしていたら、照明「 Garland」(上の写真)が変にゆがんでいるのに気づきました。それを直している間に、デザイン概論のレポートをこのデザイナー、トード・ボーンチェについて書いたことを思い出しました。一応成績は「秀」(最もよい)のをもらえて嬉しかったのですが、レポートの内容はほとんど満足のいかないものでした。
そのことと、この照明を改めて観察してて、(見てわかる通り、植物をモチーフとしたものがシェード代わりになってます。)その多様性を再認していました。多様性とは、この場合、
つまり、これは植物をモチーフとしているので買った人が自由に絡ませることができて好きな形、好きな光具合を作り出すことができる、という点と植物自体の形の複雑さからきています。
レポートではシェードの装飾性について書いたのですが、多様性に改めて気づいてロバート・ヴェンチューリの「建築の対立性と多様性」を思い出しました。その本の中での、同じモダニストとしながらも、ル・コルビジエとミース・ファン・デル・ローエの扱われかたが正反対な印象。
つまり、モダニストでありながらル・コルビジエの建築には多様性が見られ、ミースは自身の言葉「Less is more」が語る通り、ミニマリストとして扱われているということです。
それと、レポートで引用したトード・ボーンチェの言葉、「Modernism does not mean Minimalism」とが同じことを意味している点に気づきました。
一般的にモダニズムとは合理性、普遍性を追求した20世紀前半の建築、デザインにおける思想を意味し、ミニマリズムともイメージが繋がることも少なくないのですが(合理性、普遍性を追求した結果)、では、一体、多様性を含め、モダニズム、あるいはモダンとは何なのか。少なくとも、自分の中では何を意味しているか。一つの照明から、さらには偶然気づいたゆがみからそこまで発展しました。最低、レポートでもそこまでは踏まえるべきだった。
一つの当たり前だったはずの言葉が揺らぐ。当然のように思われるものこそ実は定義しがたい。限定された特殊なものこそ定義はしやすいものです。まるで哲学者のよう。そのあたりまでいくといつも浮かぶのがヴィトゲンシュタインの言語ゲームという概念。ただ表面上の処理と時代を以てそれをそう呼んでいるのではないか、と思ってしまいます。それをまるで僕は主客二元論における独我論のように使います。
ただ、僕はどうやらそうすると思考をやめてしまう原因になってしまいがちです。それは確かに言語ゲームなのかもしれませんが、もう少し踏み込んで考えてみてもいいんじゃないか、言葉と対象に正面衝突してみないと先は見えない、とも思いました。そうして深まった論理はきっと感性にもフィードバックするはず。
2007.04.04 |
| Comments(0) | Trackback(0) | 考えごと:デザイン・アート

仙台にて。なんでしょう。これを見たとき言いようのない感情を覚えました。「デザイナーズマンション」、非常に不快な響き。あまりにも馬鹿らしくて笑いすら出てしまいそうですね。デザイナーという名前を使って、デザイナー名は明かさない。誰が、ということでなくて、デザイナーという名前自体が価値を持ってしまいました。デザイナーという職業をおそらく一般的に誤解させた罪は重いです。
それと、楽天イーグルスのマスコット。クラッチ。デザイナーズマンションごときに使われるのは個人的にもいい思いはしませんが、まあそれはおいといて。楽天のマスコットを使うことでまるでアイドルを出演させたCMのようにまた価値を持たせようとしているわけです。
つまり、2重に価値をあげようとしているのです、この箱は。本来の価値が持ってない以上に欺瞞でそれ自身を覆ってしまって。このマンションに本当はデザイナーなんていない。とにかく、マンションを建ててやることといえば人をだまそうとすることくらい。
いい加減「デザイナーズマンション」なんてくだらない言葉、なくなればいいのに。それを振り回す人はデザイナーにも、設計者にも、入居者、見学者にも全く失礼なことをしているのに気づいてないのです。
2007.03.06 |
| Comments(0) | Trackback(0) | 考えごと:デザイン・アート
最近、電車内などでよく見かける広告。softbankの「pantone」シリーズ。pantoneとかいってもデザイン系の人しかぱっとは伝わらないけど、つまり色のトーンの一種です。ロフトなんかも売り出してた気がします。

広告の写真を撮っておけばよかったのですが、しょうがないので電車や駅なんかで探してください。山手線なんかでよく見ます。この携帯電話の面白いところはやはり色のバリエーション。実際買う立場になったら迷いそうです。こんな非経済的なことをする行為は評価できます。けど、ちょっとこの広告(電車や駅で探しましょう)があんまり好きにはなれないんです。
たぶん、これと同じような広告をHi-tecのペンあたりで作るのとは意味が違うようになるでしょう。この広告は携帯電話の色がそろった美しさを見せているように僕には思えます。しかし、実際になると、購入者は買う携帯はまず一つ。例えばHi-tecのペンだったら集めることだって可能だから、そういう見せ方は全然ありですが。
おそらく、この広告に魅力を感じてこの携帯電話を買った人の中には何か物足りなさを感じる人も少なくないのではないでしょうか。そういう意味ではこの広告は正直でないデザインだと思えます。デザインなんて、多少の張ったりがあったほうがいいんだ、と言う人もいましたが(笑)。
2007.03.02 |
| Comments(0) | Trackback(0) | 考えごと:デザイン・アート
デザインや建築で「less is more」という有名すぎる言葉があります。逆説的なこの言葉は「少ないものほど多い」という直訳です。この言葉は20世紀の巨匠建築家ミース・ファン・デル・ローエによるものであまりにも有名すぎるので後世、「less is bore」などと逆の意味に用いられたりもしました。
今、ヴェンチューリの「建築の多様性と対立性」を読んでいて、しばしばこの言葉やコルビジエの建築について書いていて、自分なりのまとめとも言えるものを残そうと思います。以下、あくまで個人の考えと思ったことです。これはあくまで自分個人の考えなのでわかりにくいよ、とかの意見や反論などはむしろ欲しいくらいです。あったらおくれ。
まず、「less is more」と「simple is best」は似ているようで、実は大きく違います。表象的には同じです。それはミースのバルセロナ・パビリオンを見れば感じることですが、前者は「そぎ落とす」という単語が良く似合い、後者はただ単純にすることであります。前者が問題にしているのはその要素であり、後者は全体的なものです。よって、「simple is best」のほうが曖昧であるといえます。「less is more」は問題意識をはっきりとさせています。
これをヴェンチューリは「less is more」について、問題を絞ることによって限定している、というようなことを書いています。問題を限定することによって(逆に言えば、問題の一部は解決を諦めて)、その限定した問題(less)に明快な、深い解答をもたらすということになります。この深さというものがミースの意味する「more」になるのでしょう。この要素を限定することは個人的にはデ・ステイルのモンドリアンの絵画などにも通じるような気がします。
つまり、「less is more」は、それによってもたらさせる形は非常にシンプルな、研ぎ澄まされたものでありながら、その中に深い意味をもたらしている、という点でただの「simple is best」とは異なるわけです。
そういう意味では良いものに聞こえますが、問題の一部に特化し、他の問題を諦める、という点で多様性に欠けています。例えば、極端な話、住居でトイレがついていない場合もありうる、ということです(実際はそんなんでもないが)。
ヴェンチューリの本を読んでコルビジエのサヴォア邸の参照が非常に多いことに気づかされます。サヴォア邸はそのファサードはシンプルながら、中は非常に多様性に富んでいるということなのですが、単に外と中の関係性だけでいったらコルビジエのほうが「less is more」なのです。といってもおそらく「less is more」は単純な外と中の関係性のことでないからそう言わないのですが。
たぶん、ミースの建築やデザインのシンプルな、洗練された形は内部(意味)から発生したものに拠るのでしょう。
2007.01.29 |
| Comments(0) | Trackback(0) | 考えごと:デザイン・アート
« | HOME |
»