僕は個人的な事情でよく高速バスに乗ります。夜行は少々体力的にきついときもあるのですが、最近はうまく自分のペースになれるようにはなりました。
昼間や夕方のバスは、本当に好きです。5時間くらい、自由な時間があるようにさえ感じます。隣人に恵まれないときはあっても。一人で2席使えるときは漫喫いるくらいに楽です。
もはや小旅行になっていて、いつも持っているのが少々字が多い本一冊、軽い雑誌一冊、ipod、エスキース帳。あと飲み物と食べ物(休憩のサービスエリアで補充あり)。これだけあると、5時間が楽しく終わります。
それと、夕方のバスは日も落ちるので外を眺めていても楽しい。首都高から眺める夕日って、実はすご〜く美しいんです。夜は夜で街のぽつぽつした光がまた美しい。
眠くなったら一眠りも出来て、快適です。何気に好きなのが、そういったうとうとした状態のときに、休憩に入るため、バスがスピードを落とすときの感覚。その後に休憩で外へ出て、バスの外の緊張した空気を味わうのもまた良いです。バスの中の弛緩した空気と外の緊張の対立と、うとうとした時の曖昧さがほぼ同時間に体験できる、実は日常ではなかなかない経験です。そう思います。
高速バスは良いです。電車より時間はかかるけども安いし。何がいい対価というと、春休みなので旅行行きたいなぁ、てことです。
2007.01.30 |
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デザインや建築で「less is more」という有名すぎる言葉があります。逆説的なこの言葉は「少ないものほど多い」という直訳です。この言葉は20世紀の巨匠建築家ミース・ファン・デル・ローエによるものであまりにも有名すぎるので後世、「less is bore」などと逆の意味に用いられたりもしました。
今、ヴェンチューリの「建築の多様性と対立性」を読んでいて、しばしばこの言葉やコルビジエの建築について書いていて、自分なりのまとめとも言えるものを残そうと思います。以下、あくまで個人の考えと思ったことです。これはあくまで自分個人の考えなのでわかりにくいよ、とかの意見や反論などはむしろ欲しいくらいです。あったらおくれ。
まず、「less is more」と「simple is best」は似ているようで、実は大きく違います。表象的には同じです。それはミースのバルセロナ・パビリオンを見れば感じることですが、前者は「そぎ落とす」という単語が良く似合い、後者はただ単純にすることであります。前者が問題にしているのはその要素であり、後者は全体的なものです。よって、「simple is best」のほうが曖昧であるといえます。「less is more」は問題意識をはっきりとさせています。
これをヴェンチューリは「less is more」について、問題を絞ることによって限定している、というようなことを書いています。問題を限定することによって(逆に言えば、問題の一部は解決を諦めて)、その限定した問題(less)に明快な、深い解答をもたらすということになります。この深さというものがミースの意味する「more」になるのでしょう。この要素を限定することは個人的にはデ・ステイルのモンドリアンの絵画などにも通じるような気がします。
つまり、「less is more」は、それによってもたらさせる形は非常にシンプルな、研ぎ澄まされたものでありながら、その中に深い意味をもたらしている、という点でただの「simple is best」とは異なるわけです。
そういう意味では良いものに聞こえますが、問題の一部に特化し、他の問題を諦める、という点で多様性に欠けています。例えば、極端な話、住居でトイレがついていない場合もありうる、ということです(実際はそんなんでもないが)。
ヴェンチューリの本を読んでコルビジエのサヴォア邸の参照が非常に多いことに気づかされます。サヴォア邸はそのファサードはシンプルながら、中は非常に多様性に富んでいるということなのですが、単に外と中の関係性だけでいったらコルビジエのほうが「less is more」なのです。といってもおそらく「less is more」は単純な外と中の関係性のことでないからそう言わないのですが。
たぶん、ミースの建築やデザインのシンプルな、洗練された形は内部(意味)から発生したものに拠るのでしょう。
2007.01.29 |
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気づけば授業も終わり。月並みですが、一年が経ちました。学校は今日から受験準備に入るのですが、ちょうど去年の受験からちょうど一年です。一年間、たくさん学んだ気がしますが、まだまだ先がある気がします。デザインの奥の深さを感じています。
春休みはとりあえずマックでも買うか、ってことでバイトにいそしむつもりです。それと、富山に行かないと。映画、撮らないとなぁ。大学のころから、長期休暇に入ると溜めてた本を読んでしまおうと思うのですが、結局減らないものです。
こんな長期休暇も久々なので、無駄にはしないように生きないと。時間を無駄にして一番いやなことは後悔することですね。
2007.01.27 |
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どうやら僕は飲むと饒舌になるようです。言っているつもりでも自分の中で終わっていることが多いようですね。デザインがコミュニケーションの手段ならばこの性質は良くないです。
それで、こないだ巨匠の先生が授業中に「お前らのオリジナリティーなんてたかがしれてるから見たくもねぇ。真似から始めなさい、真似ると学ぶの語源を調べてごらん。」と言ってたのです。まぁ、創造を経験の積み重ねと考えると妥当ですが、いざ真似をしようとしたときにそれは見た目から入るか、それとも表現の手段としてなのか。前者ならば本当にそれっぽいのが出来るし、後者ならば言われなければわからない、て感じでしょう。
ちなみに明日提出のアクリル加工の課題、倉俣史郎さんとインゴ・マウラーの表現手段を思いつつ作りました。パクってごめんね!
オリジナリティーについてはまた色々言いたいので今度に。
2007.01.24 |
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酔っているときの感覚は、勿論平常時とは異なるのですが、感覚が先に来て、思考というものがやや後回しにされます。こんなときの思考はあてにはならないのですが。ただ、この酔っているときの自由な、妄想に近い発想が自分ではなかなか愛しかったりするものだ、と感じました。普段、感覚がここまで高ぶることはないものですし。
論理的なことは感情より高次で、例えば酔っているときに感情や感覚が(少なくとも自分の中で)先に来ること。論理的なこととは、つまり命題の積み重ねであって、過去の蓄積が必要になるのに対し、感覚というものはいつも現在的なものだからかもしれません。だから、酔って能力が著しく低下しているときはやや論理的ではないのです。ただ、感覚は勿論、記憶されるもので、それの想起に関してはまた別問題。そういういこともあって、僕は論理というものは感覚に対してはかなく、もろいように感じるのかもしれません。
はじめにあったのは、感覚か論理か。まず、はじめに〜があった。
僕には「論理が非論理的なものに反抗することは論理的である」ということも、また、全ての判断の根源にまず感覚があることも、どちらも同じように正しく思えるのです。ただ、今となっては何かを感覚するときに言語の介在を抜いてはできず、また、あらゆる真に思われるロジックも感覚的に理解しないと身体の中にまでは入って来る気がしないのです。
2007.01.23 |
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アルフレックスのソファに寝っ転がりながら天井を見ていると、針金とシュロ縄がきれいな平面に空間を分割していることに気づいた。それと、ボーンチェの照明の明かりが改めてきれいだと思った。
いったい、どれほどの感覚を自分で支配できているのか。例えば、字を書くこと。言葉に対して、もしかしたらそれに振り回されていやしないか、とか。言葉というものは厄介で、場合を限定すればするほど難解になる。より具体的なものに近づくはずなのに。知識量が問題なのではなくて、それは感覚の質なのだと思う。
自分の部屋はすごく気に入っているのだけど、こないだソファが届いて、模様替えをしたとき、家具がほとんど茶色なことに気づいた。棚、椅子(一脚はオレンジだけど、色相は同じだ)照明の明かり、そうでないのは布団と椅子一つ(でも黒だから空間に溶け込んでいる)と緑のベンチくらい。
今でも、感情と理性は相互補完的だと思っている。しかし、優位なのは感情だと思う。それらは、対立性というよりは多様性の中の直径に近い位置関係だと思う。図に描くとわかりやすいが、例えば六角形の中の隣り合わない2点間の線分だ。空間の中の2点ではない。

このようなことを書いてみても、自分の信念は出ない。自分らしさなどは出せない。アイデンティティは個人に使える言葉ではなく、集団にしか使えない言葉のように思える。それでも、環境の中から自分が選んできたもの、そうさせた内的なもの、それを未だ信じているうちは運命論だ。つまり、自分がアプリオリなものの存在を認めていることに気づいた。決して遺伝子などの科学的なレベルではなく。どうでもいいけれど、それを考えると、明日学校に行くのがめんどくさくなった。あぁ、また面倒な自分がいる。それでも明日を迎えるのはここ1,2週間で最も楽しみだったりする。
話は変わるが、装飾とは機能である。と思った。最近ずっとぶつぶつと考えているところで、今その証拠や論証を探している最中だ。装飾は冗長だけども、いったいあるデザインにおいて冗長の始まりはどこからなのか、去年の今頃(もう少し前の時期か)に考えて迷っていた。ただ、その水準をあげれば(あげる、という言葉はおそらく的確ではないが)、装飾は機能なのだ。しばらくしたらまたこれについてより詳しく言葉にしてみたいと思った。
2007.01.19 |
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0:40分から衛星第2で「女は女である」が放送されるそうです。僕が最も大好きな映画です。ゴダール映画なのに楽しい。そんな映画です。何故かDVDで観ないくせしてテレビでやると観たがるんですね。まぁ、観れないけど。
今日は「こま撮り映画 こまねこ」を観て来ました。自分でこういうのに弱いと知っていながら観にいきました。だって、ねこなのに眉毛ついてるんです。
思った以上にパンチ力が強かったです。半泣きでした(笑)。涙を我慢しすぎて頭痛がしました。中身はなかなか面白かったです。男一人で観に行ってるのは僕くらいでしたがね!ライティングなど撮り方を何となく知ってみてるとすごい努力がこの中にあるなぁと思いました。
で、これはこま撮りする映画をこま撮っている映画なのですがそのメタさ加減がmたいいです。あぁ、これ実際に撮影中にあったんだろうなぁ、とかイメージできて。それと、話の一つ、「カメラのれんしゅう」。実際に映画を撮っていてよくあることが描かれていて、「あぁ、撮影でこういうことよくある」と思ったり。可愛いだけじゃないこの映画。なかなかあなどれません。
2007.01.17 |
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ずっと話題になっていたauの「MEDIA SKIN」がいよいよ、発売されます。

内輪ではコンセプトモデルのときからの話題。しかも、昨日、「infobar」、「neon」、「talby」ともどもMoMA(ニューヨーク近代美術館)のパーマネントコレクションに入ったばかり。触感など、様々な魅力はありますが、素直にこれは欲しい!
僕はドコモなんですが、ナンバ−ポータビリティしてでも欲しいです。デザイナーの吉岡徳仁さんは学校柄、縁を感じますし。ちょっと真剣に迷ってみようかと思ってます。
しかし、電話のデザインだけで携帯を変えさせる力というものを改めて感じさせられました。僕がドコモにしたのは何となくでしたが、今使っているpreminiーsもデザインは気に入っているものの、前のpreminiが壊れたからでした(結局preminiかよ、と思う)。
まあ、そういう意味でも今回の「MEDIA SKIN」ってのは実物が楽しみですね。見かけだけだと困りますので(多分大丈夫だろうが)。
2007.01.16 |
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正月に実家で見たテレビでも。
暇つぶしに遅い朝食を食べながらテレビで放送していた「県内職場対抗ボーリング大会」。一時間くらいの放送枠でした。
まずはチーム紹介。3人一組のチームが「頑張るぞ〜、お〜」などと一言ずつ意気込みを発表。これが長い。
公務員も民間も混じって、30チームくらいあったのでしょうか。ボーリングの放送できるのか、ってくらいの長さ。デザイン学生的に気になったのが天童木工さんが出てたことくらい。
続いて予選、というか「予選が行われた結果、以下のチームが決勝トーナメントに勝ち進み・・・」というナレーション。ここでほとんどのチームが消えました。というか結局チーム紹介だけの一瞬しか放送されなれなかったチームがほとんどでした。
で、決勝トーナメント。ここもまた残念なことにほとんどがダイジェストでした。
そんで、決勝戦。
「酒田市役所A」VS「酒田市役所B」。っておい!さすがに決勝戦だけあて割と長めに時間は取られていましたが、ストライクが出るたび隣のチームともハイタッチする始末。
解説者「さすがに決勝戦ともなると、交流が深まりますね」。
いや、絶対違う。ボーリングをする前から仲良かったはずだ!
そんなので放送の1時間は終了。どっちが優勝したかははっきりしてないけどどっちでもいいだろ。
地元の鈍さを痛感したひとときでした。これぞ全国に誇れる山形県クオリティ。
2007.01.15 |
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学校帰りに渋谷のシネマライズにて観て来ました。前から観たかったドキュメンタリー映画「ダーウィンの悪夢」。
公式ウェブサイトでも、新聞などでも取り上げられていますが、ナイルパーチという魚がタンザニアのヴィクトリア湖に放流されて以来、その魚の漁で仕事を得る人が増え、しかし一方、貧富の差は広がり、湖の生態系は崩れ、また、魚を運ぶ飛行機は武器の密輸にも使われ。。。という本当に悲惨な現状を描いている映画です。しかも、その輸出先の多くはEUと日本。。。
始めは湖の問題から入り、徐々に周囲の街に焦点は移っていく感じです。一部からは現実はこの通りではない、という声もあったようですが、映画の時間でそれを全て伝えるのは無理だし、監督の視点を強く感じます。それに、たとえ現状がこのままではないとしてもそこに写されていたのは事実であることに間違いはないわけです。そして、終わり方がとても気に入りました。ドキュメンタリーに親しんでないから、どうなのかわからないのですが、エンドロールはほとんど環境音のみ。なんでもない映像の後、いきなり暗転。ざわざわと音があるだけ(後半に歌が入るけど)。
印象的だったのが、兵士は給料が良いから戦争が起きて欲しいと思う人がいること。武器密輸と魚の輸出の飛行機のパイロットが世界中の子供が幸せになればいいと思っているが、どうしようもない、と語る場面。こういう人たちのためにも、戦争はなくならなくてはいけない。
非常に重い映画です。ずんときました。僕がアフリカなどの貧困は知らないわけはないのです。しかし、どうも日本にいる限り、それを意識することなく生活してしまっているようです。それを気づかされ、また考えさせるというよりは考えなくてはいけなくなるような、そんな映画です。
何が出来るのか、と考えてもいったんできあがったシステムを壊すというのは非常に困難なものです。金銭的な援助も個人の力では微々たるもの。国連なども既に食糧援助はしているようですし。何より、自分の立場を考えると、お金を借りて学んでいるくせにそれを横流しにするような行為はよくないです。さらに、社会が違うのに同じように扱うのもどうか、と。映画の中で彼らの生活水準は一日1ドル以下とテレビが言うシーンがありましたが、ドルの価値基準を押し付けているのも結局グローバリゼーション。
今できることはせいぜいこのブログで少しでも映画を宣伝して観てもらうくらいでしょうか。それでもまだ疑問が残るくらい。観てください。割と全国巡回するようです。こないだから観たほうがよいといっている映画ばっかりですが、でもそれだけ良い映画に会ってます。
映画の中の現状を救うにはどうすればよいのだろうか、と考えながら帰りました。タンザニアも道を整備して福祉を用意して、などと結局グローバリゼーション的アイデアしかないのでしょうか。ナイルパーチの放流によって地元の魚がいなくなった。そして、その輸出、結局それもグローバリゼーションですね。グローバリゼーションの理想自体は価値観によるものなのでひとえに良し悪しを決め付けられるわけではないでしょうが、それでこの映画やイラクのように、その恩恵に預かれないところが生じるのは絶対良いはずがないと思います。
グローバリゼーションとはちょっとはずれますが、理想、と書いて今日の講義での共産主義のことを思い出しました。最初のころの共産主義の理想はそれはそれで素晴らしいものなんですね。ただ、実際にあたって問題が生じてしまう。グローバリゼーションも同じです。いつからか、現実に直面して理想にズレが生じていくのは悲しいことです。こないだから思っていたことがありまして、ちょうどよい機会なので書かせてもらえれば、論理というものは現実の感情の前では可愛い赤子のようなものですね。
2007.01.12 |
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東京に来て、今日あたりから本格的に授業が始まっています。
さて、東京では先月、新宿、渋谷相次いでばらばら遺体が放置される殺人事件がありましたね。妻が逮捕されたようですが、実は通学路沿いでした。朝、何か今日は駐車が多いな。そしてヘリも飛んでるぞぉ、とマンションの前のカメラ達を見るまで気がつかなかったのです。中心に見えるマンションがそれです。
http://maps.google.co.jp/?ie=UTF8&hl=ja&q=%E6%B8%8B%E8%B0%B7&f=q&z=18&ll=35.667896,139.689531&spn=0.002109,0.004608&t=k&om=1
事件の朝も多分僕はそこを通学していたので今更ながら事件の恐ろしさを感じたのです。
↓ちなみにこちらは丹下健三さんの代々木競技場。上から見ると(見ても)なかなか素敵な形をしてらっしゃいます。
ウチの学校が下のほうに見えるのですが、まだ工事中のころの模様。
http://maps.google.co.jp/?ie=UTF8&hl=ja&q=%E6%B8%8B%E8%B0%B7&f=q&t=k&om=1&z=17&ll=35.666571,139.700174&spn=0.004219,0.009216
これで実家を探してみようと思いましたが、田舎はそんなに拡大できないようで。
追加。さっきヘッダーの画像を変更してみました。今まで制作した映画の画像で構成してたのですが、前のを作ってから新しく2,3本撮ってるので。でも、なんとなく構成が気に入らないのでそのうちまた変更するかもしれないです。
2007.01.11 |
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「グレートブリテン及び. 北アイルランド連合王国」。英国の正式名称です。当時中学生もしくは小学校高学年だった僕はこれを聞いて「うっわ〜、イギリスって変な名前なんだなぁ〜」と思い、友人らとネタにまでした記憶があります。その意味も知らないで。
それと、大学の授業中。哲学のときに、アリストテレスについて先生が講義しているときに、一人の生徒が「でも、それって結局自分が快く思うほうを選んでいるのと同じですよね」みたいな快感論(?)を述べ、そこで先生が「でも、例えば、戦争で捕虜になって拷問されている人は自分の命がかかっているのに白状しようとしませんね、自分第一であれば普通は命がかかっているからそうはしませんよね」と返したのを思い出しました。
というわけでアイルランド映画「麦の穂をゆらす風」。ケン・ローチ監督。2006年カンヌ映画祭のパルムドールです。仙台公開初日に観て来ました。
あらすじなどは公式サイトなんかでどうぞ。映画を観にいく前に公式サイトで予習しておくのがよい映画です。映画の手法的には画期的なこともほとんどなく、ただ職人的につないでいくような映画ですが、全く飽きません。大傑作です。ラストシーンが大好きです。中途半端な構図と中途半端な間で終わるラストが、この映画のどうしようもなさを美しく表現しています。というわけで僕がこの映画に感じるキーワードは「悲しみ どうしようもなさ 民族と国家」の3つです。
個人的には民族意識やそれと個人レベルの葛藤など。それと、同時代、完全に同じではないけれど日本も同じような歴史だったりします。それを意識せずにこの映画を観ることはできませんでした。日本人にあまりない民族意識というものが世界中、歴史のいたるところで戦争などで個人レベルで人を苦しませる。民族や国家にとらわれる必要がないとは全く思いません。どんなに世界が繋がろうとも、民族や国家のアイデンティティは個人にも非常に重要なものだと思います。人が生まれてくるとはそれまでの歴史がそこで続いた証拠でもあるのですから。どんなにそれを捨てろといっても死んでも捨てようとしない人は世界中に多いことを思うべきです。
映画の話からずれました。素晴らしい映画です。久しぶりに映画で涙腺をやられそうになりました。やられてないけど。まずは公式サイトへ。前置きなんか読みつつ、気になったら予告編を見てください。まだ日本中、いろんなところで上映されているから、ぜひ映画館で観てほしい。こんなに一つの映画を万人に勧められるのもだいぶなかったことです。ついでにケン・ローチ監督が参加している「明日へのチケット」も一緒に観るとまた良いです。
2007.01.08 |
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昨年末のことでしたが、電車の中吊り広告。フレシネの広告です。見えにくい場合はクリックすると拡大できます。
普通の広告なんですが、学校で疲れてたのか、僕の注意が悪くて、

意識が勝手にこんな風にトリミングしてました。
一度こう見えたらずっとこれを見るたびに意識してしまいます。製作者は意図していなかっただろうけど、でもそう見えたものは仕方ない。冬の並木道を彩る電球によるライトアップもいったん泡たて器に見えたらもう泡たて器にしか見えないのです。
2007.01.06 |
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先程仙台にとりあえず帰ってきて、ようやくネット環境です。

仙台で工事中の新しいビル。ちょっと美しいです。ま、よくあるミース型(勝手に命名)なんですが。あ、新年でした。遅れましたが、あけましておめでとうでした。本年もよろしくです。
今年は厄年なんですね。で、地元の神社で厄払いをしてもらったんですが、お金がかかったけども、まぁ、よかったです。お酒ももらえたし。
今年の目標はありません。どうせたてたところで一ヶ月も覚えてないような人なので、ハイ。忘れないのは今日がジャンプ発売日だってことくらいですよ。
実家に帰ってたわけですが、田舎の建物なんかを見ると最も美しいのは神社です。あとは橋や、工場だったり、校舎やプレハブだったりするわけですが日本の田舎の住宅は古いのを除いて全く美しくない。僕が田舎に感じる鈍重さってのはその辺りからくるのかもしれません。新興住宅地やらは特に。写真でもあればいいのですが、引きこもりしてたので。ある意味、そこには純粋さがあるわけですが、そういう点では均質化の被害者のようにも感じます。母親の家も。実家も。
それと雪がなかったのが残念だった。最近、暖冬を毎年のように聞く。これと温暖化と、何か関連はあるのかな?よくわからないけども。小学生のころのような、ヒザまで埋まる積雪が見たい。生活は大変になっても。
その他、実家に帰っている間に考えてたことはたくさんあるけれども、また次の機会に。田舎は時間がゆったりと過ぎていくのもまた考え事なんかが自然と生じていいですね。それもまた田舎の鈍重さ。よい点も、悪い点もあるのです。あ、ほとんど仙台通信になってねぇや。
2007.01.05 |
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