目覚めると6時半。カーテンの外は明るい。隣の席の人が盛岡で降りていきました。
青森まで、高速バスはゆったりとできます。なので二度寝。8時半。弘前。ここで起床し、朝食をバスの中で食べ始めました。カーテンの外は弘前市郊外。弘前は前川國男の建築が多いことで有名ですが、今回はパス。外を見てて思ったことが、ここが東北だって、すぐ同定できることです。東北らしい田舎風景って、あるんでしょうね。特に日本海側。
9時20分。青森駅到着。2分差でバスを逃した恨みは大きい。一時間以上待つのか、と思ってましたが、20分後くらいにあってそれに乗って移動。
三内丸山遺跡前で降車、何故か近いのに出てるシャトルバスに乗って青森県立美術館へ。
開催中の「寺山修司 劇場美術館:1935〜2008」を観てきました。
いやあ、毒にあふれてました。寺山修司に関連した同時代の作家の作品(横尾忠則とかね)もあり、なかなか観ててあきませんでした。ちょっと失敗かなっていう展示もありましたが。
この人は今で言うオタクだと思った。
ホールでは巨大なシャガールの作品もあり、心が動きました。この絵のための空間ではないか、とさえ思えるような。
常設も見てきました。奈良美智の、生で観ると面白いと思いました。あおもり犬もよかった。写真撮れたので撮りました。あと成田亨のウルトラマンの原画に興奮してました。
青森県立美術館は青木淳の設計。白い箱ではないとこが面白いと思います。やはり、茶色の壁と白のレンガの部分の対比がよいのでしょう。外からはカメラ小僧のごとく記念写真をたくさん撮ったのですが、この建築は内部空間だと思います。まるで巨大な地下空間の中にいるような、そんな感覚になりました(もちろん2階以上あるのですが)。入り口が6箇所ほどあります。これはSANNA設計の金沢21世紀美術館と同様、正面性がないとも言えるでしょうが、決定的に違うのは21世紀美術館が円形を採用してどこからも同様の表情を持っているのに対して、青森県立美術館はエントランスを複数持ちつつも異なった表情がある点でしょうか。市民レベルで生き生きとしてるのは21世紀美術館でしょうが、建築としては僕はこちらのほうが好きです。素材、という点でも。
ちなみに昼食は美術館のレストランで「津軽鶏とリンゴのカレー」。青森=リンゴ=カレー。リンゴがおいしいところはカレーがおいしい法則を見つけました。バーモンドカレー効果です。
午後2時、三内丸山遺跡へ。近いです。ずっと見たいと思ってた遺跡(復元)を見ることができました。長さ30mほどのものなのですが、竪穴住居の形式でありながら、壁があります。で、壁は丸みを持っていて、全体の形状は卵型です。述床250平米ほど。プリミティブでありながらかわいさを持っている。使用用途は祭事用だったのか、集合住宅だったのか。また、柱が壁より内側にある点も面白かった。内部空間が素敵でした。その後はドラクエで初めて入った町のように、復元住宅に一軒ずつお邪魔してました。土葺きの住宅にかなりの魅力を感じました。
時間が余ったのでもう一度美術館へ行き、写真をパシャパシャ。写真をアップロードできなくて申し訳ない。今日は漫画喫茶からです。カメラに新しいフィルタを今回旅行用に買ったのです。ケンコーのサーキュラーPLです。反射光を抑え、風景にコントラストをもたらすフィルタ。最初は慣れないながらもこれの効果に感動してました。絞り、シャッタースピード、ピントのほかにもうひとつ調節するポイントができたような気分。嬉しいですね。
その後、三内霊園というなかなか不思議な霊園を通り、新青森駅へ。開発中で、寂しさがありました。線路を越え、あらかじめ調べておいた漫画喫茶まで移動。国道7号線沿いでした。そのまままっすぐ歩けば実家へ帰れます。バイパスってのはただでさえ寂しいのに、歩くとさらに寂しいものです。
時間をつぶすためゲームセンターへ。ガンガン(ガンダムvs.ガンダム)がなくて萎えました。時間潰せませんでした。すると、コロナワールドがあるのを見つけました。コロナワールドってのは仙台市郊外にもありましたが、シネコンやゲームセンター食事所などが一箇所に集まった親子づれが休日をそこで過ごせちゃうような場所です。そこで疲れを癒すため温泉につかりました。露天風呂は気持ちよかったですが、耳をすませば聞こえてくるのは車の騒音。。。
風呂から上がり、半田屋(バイパス沿い)で夕食。都会では若い人がアルバイトしてても、ここは青森。半田屋の店員がおばあちゃんって、ほんとにそういうとこみたいでした。
で、漫画喫茶。なかなかここは快適です。
明日は十和田市へ行きます。先日オープンした十和田市現代美術館へ行く予定です。設計は西沢立衛。今日の青森県立美術館や、21世紀美術館と比べていかがなものか。森山邸にも似た(とりあえず見る前なのでそんなイメージを持っている)この美術館。開催中のオノ・ヨーコ展にも期待して行ってきます。
2008.04.30 |
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土曜日。アテネ・フランセへカール・ドライヤーの映画を観に行く。「ゲアトルーズ」。遺作です。ゲアトルーズ弁護士で大臣になる夫の妻である主人公の名前。女性とその周辺の男性の映画です。「愛こそ全て」陳腐な言い方ですが、言う人が言えばそれは真実。そう思わせられました。ほとんど場面展開がなく、ゲアトルーズと男性一人の会話のみで構成されていますが、それをここまで美しく魅せたのだからすごい。カットや構図が際立っているわけでもありません。なのに惹き付ける。ラストあたりでゲアトルーズが言った「色々苦労もした、後悔もした、でも私は愛した」(確かこんなニュアンス)という台詞はゴダールが引用していたと覚えています。最後にラストシーンの空間がすごく印象的。
日曜日、今日。写真美術館。二つ観てきました。
一つ目。
「シュルレアリスムと写真 痙攣する美」
シュルレアリスムということでマン・レイを筆頭にその他その周辺の同時代的な写真や影響を受けた日本の写真がありました。ベルメールの球体人形が好きなので観られてよかった。大辻清司の写真も3枚ほど。シュルレアリスムは思想こそその当時のものであれ、その手法、デペイズマンなどは未だ現代でも通用しうるし、現役だなぁとふと思いました。異種の同時配列はそのコントラストでそのもの自体より強く写るからでしょう。それとオブジェという概念。やはり、20世紀の中で大きな影響を持った芸術運動であったことを再認識しました。
二つ目。
「知られざる鬼才 マリオ・ジャコメッリ」展
これはポスターやチラシのメインビジュアルで絶対によいはずだ、と確信して行ったもの。白と黒の強烈なコントラストが美しい。畑の畝などを撮影した写真は見続けるともはや版画のようにも見えてきました。版画。ガストン・バシェラールが指摘するところの詩的イメージの一つ。作品「夜が心を洗い流す」でそうだったように、ジャコメッリの写真はイメージの宝庫、まるで宇宙のような写真と思いました。かといって全存在を包むような、そういう写真ばかりでもなく、ところどころで実験的な写真があり、それがまた良かった。図録を買おうか迷いましたが思ったより掲載写真が少なかったので諦めました。
最近は写真美術館の展覧会によく行きます。多分次のも行くでしょう。写真美術館が面白いのもありますが、なんか最近は写真を見てると夢を見てるような気分になることが多いです。反対に絵画をあまり観に行かなくなりました。興味をひくのがあまりない、というのもありますが。自分の生活が絵を描くことよりも写真を撮ることのほうが圧倒的に多くなったのもまた関係してると思います。
2008.04.27 |
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土曜日に映画を観にいきました。3つほど。
カール・ドライヤー監督の上映権が切れるとかで、最後の上映会に。ちなみに今週末までやってるそうです。
「裁かるるジャンヌ」
名作です。空間把握もできないくらいに役者の表情を映したカットが一貫して素晴らしい。役者勝ちな映画。しかも今回は生ピアノ演奏つき。さらには超満員につき席に座れず、通路に腰を降ろして観ました。テレビが生まれる前の昔の映画館てこんな感じだったのでしょうか。追体験した気分。こんな長かったっけ、て感じました。フィルムが違うから?
「吸血鬼」
連続ということもあり、ちらほらと寝に入ったのですが、それがさらに幻想的なこの映画を自分の中で勝手により深くしちゃった感じになりました。影、音楽、誌的なイメージが満ちています。ラストシーンのモンタージュはコントラストが強烈で非常に面白い。
で、渋谷に移動。建築系ドキュメンタリー「船、山にのぼる」。監督とPHスタジオ、五十嵐太郎によるトークショーがありました。建築の知識がない人には意味不明だったんじゃなかろうか。。。(みかんぐみ、トラス、横浜のBankartなど)それとも、建築系しか客層がいないと見込んでのことだったのでしょうか。映画自体もプロジェクトとしては面白いのだけど、いまいち。NHKのほうがいいの作れるんじゃないかなと思ってしまいました。
日曜日。森山邸へ。タカイシイギャラリー主催の「マリオ・ガルシア・トレス」展へ。森山邸へ初めて行ったのですが、やはり路地のような空間が特徴で、その空間がよかった。道路から見るのと、全く異なる体験があります。それが延長して家の中までつながっている様な感覚。それゆえ、住みたいとは思わないですが。で、この展覧会はなぜ森山邸でやる必要があるのか、趣旨が伝わらなかった。コンセプチュアルアートでした(本人もそう言っているように)。
2008.04.23 |
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国民総幸福量というのがあるのを今日知りました。幸福なんて、総生産よりも曖昧なものを果たして数値化できるのか、そう感じました。
ややして、ありうるとも思いました。心理学、社会学、行動科学的アプローチによって。
ここで、「幸福」が「幸せ」という言葉であったならそうは思わなかったでしょう。幸せとは宗教、民族によって、個人によってすら異なる質のもの。それを普遍化する手段を僕は考えつきません。幸せとは幸福の必要条件かもしれませんが、必要充分条件でも、十分条件ではない。幸福と幸せは言葉上、似ているものですが、実は異なるものなのだと考えました。
学校の課題は先ほどの国民総幸福量を「住宅総幸福量」と解釈してのリサーチ。ここで、幸せと幸福を混同するとディスコミュニケーションが生じうる、と感じたのです。
「幸せだなぁ」と感じることがあります。お風呂や、就寝直前、友人と飲む酒、恋人との夜。だいたいその感情は瞬間的なものです。幸せな住宅はありうるのでしょうか。住人が常に「幸せだー」と感じているような。そんなものはもはや偏執狂的、カルト宗教的要素すら感じます。住宅に住む限り、住人の人生と共にする以上、常に幸せであることはありえない。例えば、家族の死、病気、不成功など。
幸福ならありえるかもしれない。例えば、とても忙しく、厳しい仕事をやること。それはマゾヒスティックに幸せを感じうることは例外として、楽しいものではありません。でも、やる。仕事だからとか収入などの理由関係なく。その仕事が好きであった、やりがいを感じる、やり遂げた後に幸せを感じる、そういうものならばその人は幸福かもしれない。
だから、幸福というものは幸せだけでなく、その他ネガティブな感情も含め様々なエッセンスが長いスパンをもってバランスがとれた状態を言うのだと思います。感情ではなく、状態です。そのバランス加減は人によって異なるかもしれない、でもそれらのエッセンスはもしかしたらある程度は万人共有的かもしれない。また、それは長い期間をもって初めて幸福と言えるものならば、幸福とは瞬間的な幸せとは違い、感じられにくいものかもしれません。
つまり、幸せであり続けることが幸福であるとは思いません。
だからバートランド・ラッセルの著書の日本語訳タイトルが「幸せになる方法」ではなく、「幸福論」なのでしょう(この本の中には幸福であるためには如何にすればよいかが記されてありますが、やはりそれは幸せとは異なります)。
住人が幸せな住宅はそんなわけで不可能でしょう。幸福な住宅ならありうるかもしれない。そんなことを思い(特にディスコミュニケーションが生じないよう)、グループの人たちに話してみたのですがそれがどれほど伝わったのか、話し方もよくないせいで微妙でした。。。
2008.04.18 |
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授業がはじまりました。
最初はオリエンテーションなんかでだらだらと話を聞いていたりするのですが、デザインとアートの違いなんて商業空間の先生に語られても、全くつまんなかったりするのです。曰く、顧客のあるなし、とのこと。学生でも考えつきそうですね。
僕も1年半前ほどにこのことについてふと考えたことがあったのですが、そのときの自分の最後の一言が今の考えに近く、そこから停止しています。デザインとアートは違いは何か?言葉が違います。
そんなことはさておき、最近映画を撮りたいな、と思うことがふとあります。漠然としたイメージですが、モノそのものの存在を浮き上がらせるような、そんなのを映像化できたらと思っています。例えばジャッドの箱のように。アートではなくて、日常でその感覚を起こせないかと思っているのですが、そういう現象学的還元(少なくとも僕にはそう思える)に近い行為はゲシュタルト崩壊にも似ているもののような気がして、映像化は難しそうだと考えています。

2008.04.15 |
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こういうのを書いてるからには美しい文章を書きたいものです。難しい。
あらゆる言葉や批評によって表される、性質的なものに最近興味があります。それを性質である、と言い切ってよいか、そこは曖昧にしておきましょう。とにかく、それが万人十色の仕方を以て解釈され、また再表現(主に言葉によって)される。そこに差こそあれ、それ自体はある性質を持ち続けている。表現されたものを広くエクリチュールと仮にここでのみ定義としましょう。そして、そこに映し出された主観的な現象的なもの、それをおそらくガストン・バシェラールの言うイメージなのではないかと思いました。イメージとは像です。輸入された日本語的解釈ではなく。
このイメージは様々な言葉によって再構築されるからこそ、イデアとは違い、曖昧で揺れ動くもの、具体的には間主観的に多様な解釈が可能なものであると思いました。
そのイメージを発生させるのは何か、ある性質を備えたものとは何か、それは言葉では表現できないものです。何故なら、今述べたようにイメージとは多様な解釈を持たせうるものだから。
イメージが曖昧であればあるほど、その多様性は価値観にまで影響しうるものです。こうして曖昧なイメージが氾濫する現代にはそれ相応の多様な価値観が生じ、同時に、どちらが先かはわかりませんが曖昧なエクリチュールが生じ、灰色が価値を持つ時代になったのだと思います。
それは見かけだけの構造主義のように見えます。
それを良しと感じないワタクシがあって、それをなかなか共有することができません。そろそろと同時代的なことに飽きは生じまいかと思うときもあるのですが、先人のように、ある価値観を背負って生きていくだけの能力はまだまだ自分には足りません。今日はよくなかった。
2008.04.14 |
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今朝だったか、昨日の朝だったか。ニュースでのこと。
「高速道路での事故は渋滞の原因になり、二酸化炭素の発生につながるので地球環境のために事故を起こさないようにしましょう」
これをニュースで流そうと考えついた人の思考回路が全く判りません。地球環境のために事故を起こさない、って。事故が起こった後、「あぁ、渋滞が起こってCO2が・・・」なんて思えるおめでたい人が一体何人いるのでしょう。そこまで言わなきゃいけないなら自動車にそもそも乗らなきゃいいし、そう考えうる人はだいたい自動車なんて必要としない生活を送っていると思います。
「流行り」のエコは嫌いです。エコのエッセンスを取り入れればなんかなるだろう、エコじゃないと売れない、となっている風潮が好きじゃない。いやらしさを感じます。これが間違っているからといって、例えそれを説かれても好きじゃないからしょうがない。そもそもそこから生まれるものは「削減」。減らさなきゃいけないと主張するのはわかります(受け入れるかどうかは別として)。ただ、そこから生まれるものはどうしても無理が見える、あからさまなものになってしまいます。ネガティブなエコではなく、ある長所を備えたポジティブなエコ、そうすることでむしろそれが魅力的になるようなエコデザイン、そんなことを以前の授業のA41枚にレポートで書いてたらよろしくない評価がつけられました。でも今でもそう考えてるのは変わりなくて。
嫌いなものを好きになるのは難しい。
ポジティブなエコとは間接的なエコでもあります。例えば、三分一博志の住宅などはそうかもしれない(知らない人ごめん、ググると出てくるので探して)。それが直接削減やらなんやらにつながっているかなんて実はたいした問題じゃない、と思う。三分一博志の作品がそういう意味で本当はエコなのだ、とは言いません。エコなんてそもそも語るものじゃないかもしれない。その言葉すら怪しい。
でもこんなんでも一応レジ袋、余程でない限りは要らないって言ってます。エコ以前に昔から余計だと感じてたので。
2008.04.12 |
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開催中ですが。案内です。学校では「篠原一男 vs. ワタシ」という展覧会をしています。
展示内容は昨年度の課題。ただ、模型とはいえ篠原一男が設計した住宅が全て並ぶというのは貴重だと思います。
来た人もどちらかといえば篠原一男の住宅を観てる人が多いです。それと、代表作「上原通りの住宅」の竣工当時の映像があります。また、現在の「上原通りの住宅」、「海の階段」、「篠さんの家」のインタビュー動画があります(ちなみに「上原通り」と「海の階段」は僕が編集しました)。
篠原一男を観るのにはよいと思います。

16日までですが13日(日)には17時から奥山信一さんと坂上卓さんによる対談イベントもあります。僕自身、けっこう楽しみでいます。
2008.04.11 |
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ビクター製のHDビデオカメラ。これを使って映像編集することになりました。
環境はMac OS10.4.11。使用ソフトはAdobeのPremiere CS3。
編集できるまで、つまりファイル形式をMOVにする手順です。
とりあえずフォルダをつくってファイルをコピーします。これはHDだからDVよりは楽です。
ファイル形式はMOB。ビクター独自の形式のようです。実はこれmpgと関連のある形式のようで、拡張子名をそのままMOBからmpgに変更します(ここで一旦premiereに入れてみましたが音声は読み込めませんでした。premiereCS3はもともとmpegに対応してません)。
もしここで音声も読み込めれば問題はないかもしれません。
vlcで再生はできたのですが。vlc(Mac版)はこちら。
その後、MacでQuickTime用のMPEG-2再生コンポーネントを購入します。2400円。たぶん、色々調べましたが、少なくとも国内での環境だとフリーでは不可能なよう(Macを一旦英語仕様にするなどをすれば可能な海外のフリーソフトもあるようですがその方法もわからないし、不安なのでやめときました)。
それをインスト−ルすると、Quick Timeでもmpeg2が再生できるようになります。最後に、mpgのファイルをMPEG Streamclip for MacでMOVに変換します。「File」の欄から「Export to QuickTime」を選択し、画質などを調整して変換します。そうすると、premiereで編集可能な状態まで持っていけます。
MPEG Streamclipはフリーソフトです。色んな形式に変換できるし、ちょっとした編集ならようなので重宝します。
以上、覚え書きでした。
2008.04.07 |
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春休みに実家に帰った際、こんなものを買ってきました。「山形県隊ヤマガタレンジャー」。
調子に乗って全種類買いました。
・・・地味です。かなり。なぜかグリーン的存在が二人。その他も冴えない色。レッドとかブルーとか、戦隊らしいのは全くいませんからね。
左から芋煮、だだちゃ豆、ラフランス、温泉。よーく写真を見ると胴体に書いてます。
このうち全国区で有名なのはせいぜいラフランスだけでしょう。
キャラクターの名前もありました。
「芋煮ブラウン」 「だだちゃまめん」 「ラフランスグリーン」 「温泉イエロー」
だだちゃまめん・・・!色がない。。。他のキャラは地味ながらカラーがあるのに、被ってるからと言って「だだちゃまめん」はないだろう。
それぞれ解説すると・・・
「芋煮」 山形と宮城のイベント。秋に河原で里芋やこんにゃく、豚肉などを煮て食べる。大学のサークルなんかでよくやる。山形と仙台ではしょうゆ味と味噌味で味付けが変わる。しょうゆ味と豚汁の区別は困難。酒をお供に盛り上がる。
「だだちゃまめ」 枝豆(たぶん)をすりつぶして、何かいろいろしたもの。甘くて美味しい。だだちゃまめの「だ」は「打」から来ていると思われる。ちなみに仙台土産の「ずんだ」とは全く同じで名前だけ異なるもの。
「ラフランス」 洋梨の一種。美味しい。
「温泉」 山形県は各市町村に必ず一つは温泉がある、という妙な県だったりする。海の方の温泉はちょっとしょっぱい湯のところもあり、身体に良さそうに見える。
解説が要るくらい地味です。胴体に名前書いてなきゃわかんないのもあるしね。
こういう田舎のクオリティ、僕は大好きです。手抜きなグラフィックデザインもまたいいです。かっこいいの対極にあるもの、そんなものも実は時として愛着を呼び起こし、魅力を持ったりするものです。
せめてさくらんぼや米沢牛入れろよ、と思ったらありました。

こちらは「やまがたケンジャー」。弟が買ってました。何種類かあってさくらんぼや米沢牛、山伏までありました。さくらんぼがレッドです。納得。素敵な故郷を持ちました。がんばれ、山形県!
2008.04.03 |
| Comments(2) | Trackback(0) | デザイン
久々に会った大学時代の友人が婚約した話を聞いた。お相手にも何故かその日に会った。つきあいだしてから半年弱とのこと。なんとも羨ましい限り。その日海外旅行から帰国した友人のことが小さな話題になってしまうくらいに。式の日にちまで伝えてもらったので今から楽しみですらある。
半年、というのが僕には早いと感じられる。タイミングなのだろう。
それで、自分の人生は一体どうなるんだろうっても考えてみる。自ら進んでワーキングプアな生活を選ぼうとまっしぐらなのにまともな人生を歩めるのだろうか。
これから先の行動、迂闊に何も考えずにはいられないな、と自覚した。気づけばさっそく壁にぶつかっている最近。
結婚、ということだけに限って言えばこれは自分一人だけの事柄でもないから、また問題。
資金もないのに、やるならここで式を挙げたい、ってとこだけはもうすでにあったりする(笑)。
こんなこと堂々と言うのもなんだが、彼女とはつきあって3年を越えた。勿論、結婚など、今後の人生の話題もあった。しかし、お互い結婚に不向きな環境である。片方だけならもう片方が妥協できることもあろうが、両方なのでこればっかりはしようがない。一般的な人生設計から外れてしまった報いだろう。そう考えると、婚約発表した彼らはお互いの環境も良かったのだ(実際、よいのだ)。
デザイン系の授業ではたまに「自分の10年後をデザインする」という課題があるが、ある程度は現実的で、面白い人生を設計できている人なんてほんと稀である。社会がそういった先行き不透明なようになっていることも原因の一つだろうが、かといって現在だけを見てればよいというものでもない。それでいて未来ばっかり見ていると足元すくわれ・・・云々なんてのは所詮レトリックな言葉上だけのものである。人はそんな風に、二者択一が常なように生きてはいない。そう考え、モダニズムの特徴の一つに二項対立があったことを連想した。それゆえ、モダニズムは人間を根本に置きつつも人間から離れていったのではないだろうか。むしろ、ある時代までの20世紀こそがそういった世紀だったのではないだろうか。といっても手法としてのそれは未だ有効である。だからこれからの21世紀は人間性の回復を、などとは思わないが(未だ人間性の損失を導こうとするものはあるし、そもそも人間性、という言葉も現代では多少胡散臭い)。
話がそれた。もう眠くなってきたし、とりあえず、宝くじでも買うべきなのかもしれない、という結論。
2008.04.03 |
| Comments(0) | Trackback(0) | 雑記
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